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爪のお話

土佐打刃物との出会い

※写真は当時の代表的な
土佐打刃物「押切り」

400年もの歴史を誇る伝統の技「土佐打刃物」。

1590年(天正18年)、長曽我部元親が豊臣秀吉の小田原征伐参戦より凱旋する時に佐渡の刀鍛冶を連れて帰り、土佐山田に住まわせました。

以後、刀鍛冶だけでなく、鎌、鋸、斧、包丁などあらゆる打刃物を打つようになります。
当時は厳しい徒弟制度でしたが、年季が明けて一人前になった人々が独立・開業するようになった頃から産地の形成が進み、それまでの野鍛冶的な形態から、鎌を専業とする鍛冶屋が、高知県最大の農業地帯である香長平野を控えた久礼田・山田地区に集中して出現するようになりました。
そして、明治の中期には土佐打刃物の代表的な品目となる鎌の生産が確立されます。その後、大正期にかけて専門化と産地形成がさらに進展し、久礼田・新改の鎌、秦泉寺の斧、片地の鋸と、地域単一の品目を生産するようになります。

:写真

産地を形成するようになって以後、徒弟制度のもとでの、徒弟による販路の拡大が行われます。
1887年(明治20年)頃には販路が他郡に広がり、その後さらに四国全域から中国地方へと県外に拡大し、この頃から土佐物に限らず、他産物の物も含めて打刃物を扱う問屋資本が形成され、打刃物の流通機構がつくられていきました。
こうして打刃物業で活気にあふれる1928年(昭和3年)、株式会社太陽の創業者・久松正美が開業した久松金物店は、この地場産業である土佐打刃物を取り扱う金物問屋として出発しました。

自由鍛造とともに成長

戦前期、土佐打刃物業の生産力を伸展させた要素のひとつとしてあげられる、鋼と地金を接続した接合材の登場で、打刃物の生産工程は大きく変わり、製品の品質は均質になりました。
その一方で打刃物業者は、腕の見せ場がなくなり、しかも接合材は値段も高いことから問屋の資本力に大きく依存するようになります。

また、もうひとつの発展要素として注目された、1937~1938年(昭和12~13年)頃からのベルトハンマー、
グラインダー、送風機といった、動力機械の導入は、これまでの鍛冶屋の作業場を一変させ、従来の仕組みが大きく変わっていきました。

こうした時代を背景に、1938年(昭和13年)製造部門としての「土佐農工具製作所」を設立、名人芸的前時代の生産形態からの転換を目指して機械化に先鞭をつけ、本格的に農業用打刃物を製造販売することで、全国的に“土佐打刃物”の名を広めていきました。

農業機械化となた爪

太陽商事が設立された1947年(昭和22年)2月に実施された「農地改革」。
農業のあり方が大きく様変わりを見せ、牛馬による農耕から耕うん機へ、いわゆる「農業機械化」の時代に入りました。
この頃使用されていた耕うん爪は、一般にフック状になった普通爪で、棒状をしていたことから「棒爪」とも呼ばれ、つるはしで田んぼを引っ掻くという発想の爪であり、単純な爪のため、当初は鍛冶屋が手で叩いてつくっていました。
その後、福井泉衛氏(後に太陽鍛工取締役)によって、その棒状の爪をなた状にした「なた爪」が開発されました。

当時一般に使用されていた棒爪(左)と福井氏開発によるなた爪(右)

なた爪開発秘話

農業に従事していた福井氏は戦時中、陸軍の兵隊として従軍し、中国、ビルマ(現ミャンマー)、シンガポールまで進攻しました。その頃に目にした薙刀の形をした中国の青竜刀が、戦後復員して普通爪に替わる新たな耕うん爪を開発する際に大きなヒントになり、終戦後、復員して間もなく地元の鍛冶職人に頼んで、なた状の耕うん爪の試作にとりかかりました。

耕うん方法が機械化に変わる時のひとつの方策として、草の巻きつきや反転性など普通爪の改良に取り組み、なた爪としてある程度の完成度に達した時点で、量産化が可能な太陽商事へ持ち込み、その後なた爪は予想以上に普及しました。

今ではこれをもとに開発・改良された何種類ものなた爪が生産されています。

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株式会社太陽

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